日本の歴史を振り返れば、どの時代においても中央政権は宮城県の一帯を東北支配の拠点としていました。その結果、古くから宮城県は中央政権の影響を受けつつ発展してきました。
宮城県の記念硬貨一覧
地方自治法施行60周年記念貨幣(宮城県) 1,000円銀貨幣
発行年 | 平成25(2013)年3月14日 |
図柄(表) | 伊達政宗 慶長遣欧使節団 |
図柄(裏) | 雪月花 |
素材 | 銀 |
品位(千分中) | 純銀製 |
量目 | 31.1g |
直径 | 40mm |
1000円銀貨幣の表面には、その都道府県を代表する歴史上の人物や史跡がデザインされています。
そんな記念硬貨に堂々たる鎧姿で刻まれている伊達政宗は、まさに宮城県を代表する人物と言っても過言ではないでしょう。並んで図案になっている慶長遣欧使節団もまた、当時世界に目を向けていた政宗の功績の1つです。
また、裏面の図案は、各県共通で雪の結晶、三日月、桜の花の組み合わせである、日本の伝統美を連想させる「雪月花」をモチーフにしたデザインとなっています。
この記念硬貨には、数々の偽造防止技術が使われています。
側面にある斜めのギザは、その1つです。現行の硬貨も100円玉のように側面にギザが入っている硬貨が存在しますが、このキザを斜めに入れることより、さらに偽造が難しくなります。
また、あちこちに複雑に入れられた微細な点もまた、偽造防止に役立っています。
このほか、裏面に施された潜像加工も偽造防止技術のひとつです。硬貨に潜像加工は珍しい処置ですが、裏面にある最も大きな雪の結晶からは、下に向けると「60」が、上に向けると「47」の文字が浮かび上がるようになっています。
地方自治法施行60周年記念貨幣(宮城県) 500円バイカラー・クラッド貨幣
発行年 | 平成25(2013)年7月17日 |
図柄(表) | 仙台七夕まつり |
図柄(裏) | 古銭をイメージした「地方自治」 |
素材 | 銅・白銅・ニッケル黄銅 |
品位(千分中) | 銅75%、亜鉛12.5%、ニッケル12.5% |
量目 | 7.1g |
直径 | 26.5mm |
500円記念硬貨の表面も、都道府県を象徴する名物がモチーフとなっています。
宮城県の図案は、毎年8月県内で開催される七夕祭りです。仙台の七夕特有の「7つ飾り」と呼ばれる飾りが硬貨のなかで揺らめいています。
また、裏面は古銭をイメージした、中央に四角い穴が開いたデザインです。
日本の四角に丸の組み合わせは、日本や中国の古銭でよく見られるデザインですが、これは「天は円形であり、地は四角をしている」という古代中国の宇宙観に由来します。
この宇宙観は「天円地方」と呼ばれ、中国では硬貨のみならず数々の建物の建築思想にもつながっています。
この記念硬貨は、異なる種類の金属板をサンドイッチ状に挟みこむ「クラッド」と、それとは異なる金属の輪にはめ込む「バイカラー」技術の組み合わせでできています。日本の硬貨に使用されるのは、この記念硬貨が初めてのことです。
1000円記念硬貨の表面 『慶長遣欧使節団』
江戸時代というと、日本は「鎖国」しており海外との交流を持たなかったというのが一般的なイメージではないでしょうか。
しかし、それは徳川家光が1639年にポルトガル船の来航を禁止してからの話であり、江戸時代初期の日本は積極的に海外との交流を持っていました。徳川家康もイギリス人のウィリアム・アダムスを外交顧問に据え、海外の情報を積極的に仕入れていました。
そのような時勢のなか、1613年、宮城は石巻の港からスペインを目指して、一隻の船が出港します。
スペインを目指して
慶長遣欧使節は、仙台藩主の伊達政宗が交流のあったフランシスコ会宣教師のルイス・ソテロを正使、家臣の支倉常長を副使として、当時のスペイン国王フェリペ3世・ローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した使節です。
大航海時代を通して、スペインは「太陽の沈まぬ国」と称されるほどの絶大な経済力と、それに由来する軍事力を手にしていました。
日本にも次々と国交を求める使節が来ていましたが、植民地化を危惧していた秀吉や家康により、全面的な外交は開かれないままでした。
そんななか、政宗は家康からスペインとの交渉の許可を得て、この使節を派遣しました。出発から実に1年半ほどの時間をかけて到着したスペインの首都マドリードでは、フェリペ3世と謁見に臨みます。
またこのとき、支倉は国王臨席のもと、キリスト教の洗礼を受けています。
同年の暮れごろにローマに移動、パウロ5世に謁見し、翌年帰国の途につきました。
謎だらけの使節の目的
この使節の目的は、仙台藩が単独でスペインとの貿易を開始することだったとされています。
確かに、当時のスペインは各地で植民地を経営しており、莫大な経済力を持つ国でした。そんな国と貿易ができれば、仙台藩はより潤ったことでしょう。
しかし、ただでさえ62万石という大勢力である伊達氏を、さらに拡大させるであろう対外貿易を家康が何の考えもなく許可するとは考えられません。
そのため派遣の理由に、「政宗はキリシタンであり、領内での布教を認めることを伝えるためだった」という説があります。
確かに派遣した家臣である支倉常長はキリシタンです。また、政宗の正室である愛姫は京都でキリシタンである細川ガラシャと交流を持っていました。その結果、政宗が全くキリスト教の影響を受けていなかったとは考えにくいでしょう。
ただ、後に政宗は幕府の命に従い、キリスト教を弾圧しているので、この説は状況証拠に由来するものにすぎません。
使節がもたらしたもの
石巻を出発した慶長遣欧使節は、太平洋を横断、メキシコを経由して大西洋を越えてスペインに入っています。
そのため、支倉常長は「初めて海外で外交交渉をした日本人」であり、同時に「太平洋と大西洋を初めて横断した日本人」でもあります。
ただ、使節が帰国する前には禁教令が出されていた上、支倉も帰国後まもなく死去したため、長らく日本ではその功績が日の目を見ることはありませんでした。
再度支倉に注目が集まったのは、明治新政府による岩倉使節団のときです。岩倉具視を中心とした使節団は、スペインやローマでの支倉たちの足跡に触れて、大いに勇気づけられたといいます。
また、支倉の残したローマ教皇への親書や教皇の肖像画などは、現在「慶長遣欧使節関係資料」として、ユネスコ記憶遺産に登録されています。
石巻市の記念メダル「サン・ファン・バウティスタ号」
慶長遣欧使節の出発地となった石巻市の記念メダルには、使節が利用したガレオン船の「サン・ファン・バウティスタ号」が刻まれています。
市内にある慶長遣欧使節の歴史を紹介するサン・ファン館にて購入できます。
ガレオン船って、どんな船?
ガレオン船は大航海時代の16世紀半ばから18世紀ごろに活躍した帆船の一種です。大規模なマストを何本も持ち、速度が出るため大航海時代の花形の船でした。
欧州各国が新大陸へと航海に出た結果、ガレオン船は大砲を何門も積み、次第に軍船としても使用されるようになっていきました。
特に、大航海時代の覇者であったスペインのガレオン船は、50門ほどの大砲を備え、船員も600名という大規模な船であったことが記録に残っています。
日本では、徳川家康の外交顧問を務めたイギリス人航海士のウィリアム・アダムスによって、1607年に西洋式の大型帆船が初めて建造されています。
この船は、嵐によって船を失い、日本に漂着したフィリピン総督ドン・ロドリコがメキシコへと帰還するときに使用されました。ただ、遠洋航海をすることのなかった日本では、ガレオン船のような大型帆船の建造は、なかなか進みませんでした。
ガレオン船を建造せよ
ドン・ロドリコ救出の返礼大使として日本にやってきていたスペイン人航海士セバスティア・ビスカイノは、日本との交渉を終えて、1612年に帰国の予定でした。
しかし、帰路の途中で暴風雨に遭い、乗っていた船が大破してしまった結果、帰国できないままでいました。
そんなときに、知己を得ていた伊達政宗が船を建造し、欧州への使節派遣を計画していることを耳にします。
これ幸いと、ビスカイノは政宗に対して、自分の持つガレオン船の造船技術を全て提供する代わりに、使節の船への同乗を許可してもらいます。
当時のスペインは、自国の権益の基盤ともいえるガレオン船に関する一切の情報を非公開にしていました。
特に外国に情報をもらした者を、容赦なく処刑するほどの徹底ぶりです。バレたら命の保証はないと知りながらも、ビスカイノは、出来上がる船に帰国の望みを託しました。
こうして建造されたサン・ファン・バウティスタ号は見事太平洋の横断に成功し、使節とビスカイノをヨーロッパに送り届けることができました。
復元された船の今
サン・ファン・バウティスタ号は、平成年代に入ってから当時の記録をもとに復元が行われ、出港場所である石巻のサン・ファン館に展示されることとなりました。
しかし、東日本大震災の被害や、長年の係留による主要部分の腐食もあり、2021年に解体が決定されました。
400年以上も前に太平洋を横断した勇壮な姿は、今はメダルのなかでしか見ることは叶いません。このメダルを手にしたときには、海の向こうに思いをはせてはいかがでしょうか。